睡蓮が咲きました
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南画家として名高い直原玉青氏がこの05年9月30日になくなられました。101歳でした。これは二十数年前、岡山の栗を贈ったことへの礼状として書かれたもの。茶掛け風に表装して、毎年秋、和室に掛けて楽しんでいます。
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10月21日朝午前6時過ぎ、御殿場の高原から眺めた富士です。天気はよかったのですが、この時以外は終日雲がかかり、対面することはかないませんでした。
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四川省の黄龍地区で買った西蔵族の手織りスカーフです。
多くのものは赤を基調にした配色でしたが、わたしはすこし地味なものを選びました。幅60cm長さ2mの一部分です。
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めずらしくもなんともない花ですが、わが家は前からなんとなく「桔梗」が好きです。桔梗は芋のような根を太らして長年咲きつづけるのですが、その何代目かが絶えて、今年新しく仕入れました。
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八月二十日、成都のパンダ飼育園で、熊猫ならぬ中国産のレッサー・パンダを抱きました。おとなしくしているのは、林檎のハギレをもらってかじっているためです。
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ここにスナップを載せるのはどうかと思いますが、これは中国四川省の岷山山脈の中にある黄龍渓谷にむかう途上にある、紅軍の根拠地であった場所です。辺境の地の標高三千㍍の山中に、紅軍遠征の跡があるとは驚きでした。碑の文字は鄧小平のもののようです。
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フートンという旧住宅地街にある郭沫若記念館は旧い建築様式をそのまま保存しています。内庭の回廊の隅で、見かけぬ花をみつけました。
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3000メートルの高地の道端に咲いていた花です。だれも見向きはしないけど、健気に咲いているエーデルワイスの仲間でしょうか。
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8月22日、九寨溝の上流の池畔に咲いていた花。標高3000メートルでも、いろんな花がさいています。名はわからない。
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芦溝橋にある、抗日戦争記念館です。37年7月7日にこの地で開かれた戦火が全面的中国侵略戦争の端緒となりました。昔、来た時の展示物は、芦溝橋の事件を中心とするものだったと記憶していますが、今は全面的に展示代えされ、抗日戦争の全体像と、中国共産党の果たした役割を強調するものになっているという印象をうけました。マルコポーロが絶賛し、月を背にした姿を燕京八景のひとつに数えられる石造の芦溝橋は、一般の車輌や人物の交通を遮断して保護されていました。
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日本の渓流とは似ても似つかない豪放な流れが、滝となり、池となり、流れくだります。この光景が冬にはそのまま凍結するそうです。夜ホテルでは、現地歌舞団の公演に招かれました。私は途中退席しましたが、歌舞の水準はかなりのものでした。
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エメラルドのようなきれいな水の輝きは土質の故だといわれていますが。透明度は高く、底に沈んでいる倒木がよく見えます。
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この建物は300年以上昔に建てられたチベット仏教の寺院だと聞きました。観光客のための市がたってにぎやかです。チベット農民の住居は三階建て、1Fは家畜に、2Fは住居用、3Fは穀物などの保管庫ということらしいですが、じっさいには見ていません。
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観光客相手に地域内のチベット族は、家族総出でもの売りや写真屋などで働いています。チベット衣装の正装、子どもが抱いているのは仔羊です。
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ここの水には鱒科と思われる魚がいましたが、西蔵族は、幼児の死体は水葬にする習慣があるため、絶対にここの魚は喰わないそうです。
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入り口は海抜1800m。総面積720平方キロ。全長55KMの谷筋に114の湖沼、17の滝、電気自動車で上って上から順次徒歩で観光、中ほどにあるレストランで昼食ののち、また別のコースを上から順次渓流沿いに車から降りては徒歩で、計3~4時間は歩きました。疲れました。
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露店風呂ではありません。標高3000Mより上の雪解け水です。この渓谷では、魚類など水中生物は見られませんでした。
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岷山山脈の主峰雪宝頂の麓に位置する、全長3.6KMの渓谷です。
段々畑のように連なる池を流れ落ちる清流の幻想的な光景ですが、
酸素不足の金魚のような私(たち)には1時間ほどしか登れませんでした。
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九寨溝の空港は標高3500メートルにあります。ここからバスで1時間半ほど、峠を越えて黄龍へ、そして九寨溝へ向います。写真は標高4300メートルの峠からの展望です。
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兵庫県文化賞受賞者懇話会というものがあって、チャリテイの展示会をやるらしいです。この八月とりあえず作品を送りましたが、これはその下書きです。
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嫁にいった娘の長女、森下凪子と申します。この子も今既に、小学校6年生ですから、このスケッチを書いたのはもう十年ほども前のことになるでしょう。
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昭和初期の備前陶工、西村安次郎春湖の作品と思われます。「細工の名工」と記録に残されています。備前焼(伊部焼)の、焼〆た特徴がよく出ています。
制作時からすでに7~80年の年月が経っていますが、当時の備前焼きの素朴な味わいが
私は好きです。高さ25センチ。箱書きはありません。
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梅雨があがったので、掛け軸を架け替えました。斎白石という
中国の画家で、清朝時代から現代中国にいたるまで活躍しました。これはその末年に描いた大幅の上半分を写したものです。
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庭の隅に鎮座
している蛙。
父が造った
陶製の蛙。
70歳ころ
のテスサビ
かと思われる。
親族の新築祝い
に贈ったもの。
受贈者も死んで
帰ってきた。
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シーボルトが発見したといわれる、紫陽花の原種です。花色が次第に変化していくので七段花といわれると聞いていますかどうですか。
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裏庭で
2mほどになった
低潅木です。
タニウツギ
だろうと
見当をつけていますが、
空木の名を冠する
花は各種あるようなので
見当ちがいかも
しれません。
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八日の日曜日、晴天。
母万里(マサト)の
満100歳を祝って
岡山県和気町の
鵜飼谷温泉にシャシャラ
孫二人を含む約20
人が集いました。
そのあと、和気町にある
日本一の藤公園に立ち
寄りました。
花時はすこし見ごろを
過ぎていましたが、
100種の藤の花が
咲いている光景は、
観て良かった。
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牡丹が咲きました。しかし今年の花数はすくないようです。
モッコウ薔薇も可愛い花をひらきはじめました。エビネ蘭を
植え替えて、可憐な花がひらき始めています。
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4月21日、素敵な晴天に恵まれ、兵庫県立フラワーセンターで開かれた、「春の花を愛でる会」に招待され、脚つき、弁当つき、お土産つきで楽しんできました。まだ櫻がのこり、チューリップが盛りという広い園内を散策してきました。
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4月9日、おくれていた
櫻が一挙に満開。
天気のいい土曜日、
花見の宴も満開、
それを避けて、握り飯
持参の家族連れも
多かったです。
この白い櫻、だれか品種を
教えてください。
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裏庭の椿の樹の下やサツキの木の横に群生している、スミレの花が今年は白一色です。原産は湖北地方、普通は紫の花ですが、姿を消す年もあり、花を全然つけない年もあり、今年のように白一色の年もあります。もう20年近くも棲みついています。
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2月下旬、やっと咲きそろいました。おなじ白梅ですが、上品で芳醇な姿がわたしの気に入りです。眼をつむって夜道にふっと薫る、かすかなその存在の主張をあなたの心で匂ってください。
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神戸にカイハラロクイチという
素敵な画家がいました。
昨年七月二十九日、80歳で
亡くなりました。
20年ほど前から、病に倒れ
長い療養生活をしてきました。
行動美術協会のいいリーダーで
私たち「輪」という詩グループ
の創設以来の仲間でした。
この絵は、30年ほど前、
私が購入したものです。
最小の油彩絵です。
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これは
1990年3月に刊行された
直原弘道エッセイ集
『昭和という時代』の
表紙カバーです。
そのために描かれたのではなく
この年の「遊び展」の出品
作品でもあった
という記憶がある。
作品は和紙に墨・彩色、
縦50cmほどだった。
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二月、掛け軸を架け替えます。
これは流火堂こと安東次男の自作句書。
20年ほど前でしょうか。彼の実妹である岡格子からもらったものです。
安東次男は私の従兄弟です。近年死亡しました。
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この作品も1998年
頃のものです。
油彩50号でしょうか。
震災後、樹木をよく
描いていました。それも
ポプラなど冬の裸木を。
荒涼としたなかに
新しい芽ばえが
潜んでいるが、まだ
他者には感知できない。
そういう心象風景も
いわば震災のトラウマ
だといえるかも知れません。
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これは1996年6月に
出版された
『直原弘道の大震災私記』
の表紙カバーに
使われた作品です。
震災後の
神戸風景の一駒を描いた
数少ないスケッチです。
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2000年の作品です。
28×40cmほどの
サイズです。
前の9のときと同様
印刷物からの複写です。
この第六回をもって
隔年の作品展は
一応中断されました。
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1996年の作品。
和紙に墨で書いています。
「燦」40×42cm。
陽光のなかの向日葵、
やはり震災直後の、
心象をあらわしています。
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これは、1990年11月、
兵庫県教職員組合文化賞
の芸術文化賞を受けたとき、
副賞としていただいたもの。
直径12cm前後の
広島昭道という人の造った
ブロンズレリーフです。実は
どこを探しても見当たらず
同じものを借りてきて
デジカメで写しました。
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おなじく、1998年作品展に出した作品です。紙風船を作品構成のなかに取り入れようと試みていますが、果たして成功したかどうか。
油彩、50号。
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1998年の第五回作品展に
出したものの一つです。
油彩、80号。
この頃、人体にかぎらず、
かなりデフオルメした
作品創作を試みています。
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順不同で直原節子の作品を
お眼にかけます。若いとき
から書いていたのですが、
作品の保管もわるく、
新しく写真に撮ることも
難しいので、お見せできる
のはほんの一部です。
この作品は震災後、96年頃
に描かれたものと思われま
す。油彩、30号。
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堀口泰造という人の作。
高さ40cmほどの作品。
1972年に、個展で観て
一目ぼれし、当時とし
ては大金の、ン十万円
をやりくりして購入し
たものです。
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神戸の彫刻家
納健氏の若かりし
頃の作品です。
40年ほど前、友人
の結婚式で引出物
として貰いました。
納氏は彼の縁戚だ
ということです。
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アルバムから出てきたものです。
展示の写真ですから、私が
打ったのには違いがありませんが、
現物は手元にないようです。
若女は小面よりも、すこし
知的な美しさをもった面です。
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アルバムの中にあった写真です。
しかし私にはあまり記憶がない。
「十六」かと思うのですが
前に出した「十六」とは眉の入れ方
も違うし?
一応、龍右衛門作「十六」の写しと
しておきます。詳しい方が居られたら
ご教示ください。
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アルバムのなかから見つけました。現物
はさる方にお譲りしたので、その所在はわ
かっています。
小面の面は大勢の作者によっていろいろ
作られていますが、豊臣秀吉が愛蔵したと
つたえられる雪月花の三種の小面が有名で
す。これは雪の小面の写しです。
比べてみると、雪月花それぞれの違いが
わかります。
わたしは雪の表情が好きで、もう一面手
がけていたのですが、完成に至らず、他の
未完成品とともに放置されています。
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わたしの処理がまずいためピンぼけの写真になってしまいました。前列中央が兵庫県知事、その右隣が県会副議長、知事の左隣が私。
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「べしみ」とは口をかたく結ぶ「ヘシム」から訛ったもので、大べし見は天狗の増上慢をあらわしたものという。小べし見は鬼神をあらわし、大べし見はより魔性をあらわすというが、わたしには無邪気な尊大さが秘められているように思えてならない。すべての点で、大ぶりで誇張されたいる。眼は薄い銅板に金箔をほどこしはめ込んでいる。これはシカミや般若もおなじである。震災前、おそらく仕上げたものとしては最後の作品で、友人の注文に応じたものだが、なぜかまだ手元に置いている。ほかにも紹介したい作品はあるが、現物は手元になく写真も探し出せないので、私の能面シリーズはこれで一応終りとしたい。(「べし」という字は病だれの下に悪という字をはめる。どうしても表記できなかった。)
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高砂の尉と姥といわれるように、
前出の翁面と対応する老女の面
です。
現実の老婆というよりも、神性
を備えた化身としての老嫗とし
て設定されているようです。
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人生を達観した長老を思わせる翁面。
柔和な、祝い事の舞に似合う、癒し系
の顔ですね。
前出の尉面とおなじく、古式の舞曲面
の系譜を伝えます。
造りは、かなり大ぶり、厚手、素朴と
いった感があり、発達した能面の繊細さ
はみられません。
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これも舞楽からきた古式の面で、切り顎
や、頬の図案式模様などで特徴がある。
3番叟など祝の席で舞われる面で、
いわゆる目出度い面である。
私はこれが好きで二面制作して
その一面を友人の新築祝に贈った。
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神舞ものにつかわれる老人面だが、
ごらんのように、切り顎といって、
頭上部と下顎部とが、はじめから
切り離され、紐で繋がれている。
能面としては古式の様式をつたえ
るものであろう。
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前出の小牛尉と似ているが、
すこし品格が落ちると
言われている。
しかし柔和でととのった
顔である。
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小牛清光という人の創作になるのでこのように
よばれています。小尉(こじょう)ともいいま
す。尉は老人の面ですが、これはそのなかで
品位が高いものとして使用されます。
下歯列がないのが他の尉面と違います。
髪や髭は小さい穴をあけて埋め込まれ、
使用されているのはたしか馬の毛?です。
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この十寸髪(ますかみ)という女面は、
神舞物や修羅能に使われるというが、
私は実際は観たことはない。また雑能の
うちの狂乱ものでもつかわれるようである。
どことなく、悪意や敵意をはらんでいる
ようで、わたしは好きになれない。
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やさしく寂しげな女面です。
その昔、孫次郎と改名した金剛右京久次
が死んだ愛妻を偲んで、その面影を
写したものといわれています。
面長の知的な顔で、病弱であった女
を思わせます。
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この深井面もぽつぽつ脂が染み出ている。
子どもをうしなったりした中年女の深い
哀しみにひしがれた表情を写したが故に
「深井」と名付けられたという。
中年女を写した面では、ほかによく似た
「曲見」(しゃくみ)というのがある。
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現存している女面のなかでも、もっとも色っ
ぽい表情を見せている万媚です。
全体として女面の表情は、歳をとるほど小鼻
や口元が緩んで下がり気味になるように工夫
されています。万媚の妖しい美しさは、他の
若い女面に比しても、唇の切れ込みが高く深
いという微妙な違いからも来ているのだと教
られました。
私としては、比較的後期に打った面です。
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弱法師(よろほうし)や景清(かげきよ)などと同じく盲目のさすらい人の面で能では特定曲の専用面ということである。盲目をしめす眼の刻み方に工夫がある。
写真に点々とあばたのように写っているのは、生地の脂が年数を経て浮き出してきているもので、塗装にかかる前に十分に脂抜きをしなかった私の落度である。能面の木地は木曾檜、面打ちの最終段階で2週間ほどアルコールにつけ、その後、煮沸して脂気やアルコール気を十分に抜き、よく乾燥してから、表側に胡粉を塗りかさねるのである。
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壮年の男子、貴族一門の武将でしょうか。
源平合戦において討死していった平家の
公達を想像してください。
そこはかとなく憂愁感をただよわせ、
八字に刻まれた眉間のしわが
虚無感と苦悩をあらわしています。
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これも童子面のうちに入るのでしょうか。
「十六」という名称は年齢を思わせます。
たしか、この面を「敦盛」と呼んでいた
記憶はありますが、正しいのかどうか。
滅亡していった平家の公達敦盛の塚が
神戸にあります。
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若い男の面では、
童子や喝食(お寺に住み込んでいる半俗の
前髪をつけている若い男)がありますが、
童子はかわいらしい少年のイメージです。
前にお見せした菊慈童という妖精面に比して
より人間的なものといえます。
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「紅葉狩り」の舞台で鬼に使います。
この面の制作年ははっきりしていて、
1981年の社中の
第5回能面展に出品したものです。
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これは「菊慈童」という、妖精面の一つです。
少年の面ではほかにすこし人間くさい童子面があり、
それも二種類ほど作った記憶があります。
しかし、現物がさがしだせるかどうか。
私は自分の好みからなのか神仙面や妖精面が好きでした。
おそらく1979もしくは1980年の頃、まだ初期のものです。
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ずいぶん初期につくりました。
あとでもう一種作ったとおもいますが
「猩々面」といわれるいわば妖精面の一つです。
中国式のバッカス、酒仙ですね。
酒好きのいたずら好きの若い男が
私のイメージでした。
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やはり能面打ちに興味をもつ者は、
美しい女面から入っていくことが普通です。
これは「小面」(コオモテとよばれる
若い女の面の一種で、種々名の付いた名作が
のこされていますが、本物はめったにお目に
かかれるものではありません。
したがって師匠が打った写しの面をお借りして
制作するということになります。
5、6作はつくりましたがそのほとんどは
四散してしまいました。
この写真には78年3月作?とあります。
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かつて、十年あまり能面打ちに入門し、
精進したことがあります。
何十面かはつくったものの、その多くは四散し、
手元にあるものも整理できていません。
これは「節木増」という女面の写しですが、
おそらく、私の最初の作品です。
といっても、先生やら兄弟子たちが
手取り足取りしてくれて仕上げたものです。
写真には77年10月と記してあります。
この作品は手元に残っているはずです。
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頂きものばかりですみません。
これは神戸の古墳から発掘された銅鐸のミニチュアです。
臼で籾すりか、あるいはどんぐりなどの殻を砕いている
古代日本人が線刻で描かれているのが見えるでしょうか。
これは2000年に私が神戸市文化賞を頂いたとき、
その正賞として頂戴したものです。
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見ようによれば、一番馬らしい馬の像です。高さ30センチほどの鋳造の馬です。「栄光」という題がつけられていて、環水作という木札がついています。日展作家とか聞きましたが、芸術的にすぐれたものかどうかは、わたしにはわかりません。かつて、さる業界団体の何かの記念式典があって、そのときの引き出物ですが、参加者はみんながもらったものか、私が特別にもらう何かの理由があったのか、いまは定かではありません。
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いつの時代とは定かにはしませんが、
古代中国の青銅器全盛時代に作られた像のミニチュアです。
原像の大きさはしりませんが、これは高さ15センチくらい。
数年前、北京で、さる団体から公式のプレゼントとして
頂いたものです。
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私が午年だからでもないでしょうが、
馬の像がいくつか私の寝室の片隅に居座っています。
これはもう25年も前に、中国から持ち帰ったものです。
古墳などから出土している、
唐三彩の焼き物のイミテーションですが、
その当時は、国交回復の直後で、
まあ土産の目玉商品だったでしょう。
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絵心のある女性なら、
さしずめ飛天・技芸天などが好みという人が多いでしょう。
天馬のイメージは男のものか。
蝋細工の羽根をつけてひたすら太陽めがけて昇っていく上昇志向と、
太陽に近づきすぎて羽根が融け墜死するにいたる破滅型思考をふくんだ俗人のあこがれの形象化だという私の解釈はどうですか。
ちなみに私の生まれは庚午(かのえうま)です。
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このような牛や鶏を、父はよく描きました。
戦後、大量生産と大量消費の時代が訪れ、農村
にもその影響が出始めるまでは、牛は一つ家に暮す大切な
労働力でしたし、鶏はケージに閉じ込められる
前の、比較的自由な家族の一員でさえありました。
今日農村に行っても、このような家畜類を眼にすることは
ほとんどないでしょう。
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岡山県北の小地主の一人息子として生まれ、
戦後の40年間もずっと家郷たる農村で暮らし
ましたが、農作業についてはほとんど経験を
持たなかったはずです。したがって、農、および
農家の暮らしについての思想は、父の主体的、
体験的思考からでたものではなく、
宗教的、農本主義的幻想に立つものであった、
といえると思います。
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卵から孵ってきたのはどのようなトリでしょうか。
鶏にせよ猛禽類にせよ、誕生してくるときの姿は
このような猛々しいものではないような気がします。
とすれば、この雛の持っているなんとなく不気味な
雰囲気は、やはり書いたときの作者のなんらかの心境
を表出しているということでしょう。
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父のなかには、牛や蛙やなどのいきものの擬人化が、
詩のなかにも絵の中にも、強い傾向として遺されています。
この絵には、森のなかに、十字架にかけられた人があり、
その周辺を、家畜や森の生き物が取り囲んで見上げている、
という構図です。その説教を鳥たちも群がって聴いたという
アシジの聖フランシスコの伝説がイメージされているのかも
しれません。しかし私の父は、聖者にもシャーマンにも
なれなかった。それでよかったのです。
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内緒の話ですが、父は中庭に小さな池を掘って
大山椒魚を入れていました。
長年棲んでいましたが、ある日突然、姿を消しました。
両棲類ですから、散歩に出て、
そのまま姿をくらましたのかもしれません。
この絵にある山椒魚はずいぶんやさしい顔をしていますが
実物はもうすこし醜悪です。
ずいぶん長生きの生物のようです。
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おそらく50歳代の作品かと思われます。父には五人の孫(男2人女3人)がありその生誕のころに、この絵を書いたのではないかと私は推測しています。一種の充実感が反映していますし、平和な未来への祈りがこめられている、と私はこれをながめています。
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父はドンキホーテについての関心を
持続させていたようです。
解釈はいろいろあるでしょうが、
その喜劇的な歩みに、自己の挫折感を重ねていた
という見方もなりたちます。
人生論的心象風景として私は見ています。
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これは、父が七十五歳の頃、
私が調達した鑿や彫刻刀で、
版木に彫ったものです。
彫刻としては、おそらく最後のものでしょう。
七十七歳を記念して刊行された
詩集『驢鳴集』の口絵に使いました。
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いやに仏さんが我が家に住みついているようですが、宗教心もなければ仏壇や神棚もありません。
左の小さいのは、20年ほど前、中国で、八達嶺に行った途上、嘉ヨク関で一休みしたとき、現地の老婆から買ったもの、確か5元でした。
大きい(といっても台座ともで15センチくらいの高さ、小さいのはそれで推量してください。)方は誕生佛とでもいうのでしょうか、神戸在住の彫刻家が近年焼き物に凝って、その作品展で香炉一点を購ったとき、サービスで貰い受けたものです。
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私の父親は
おもに色紙ですが、
かなりの絵を書きのこしています。
そのうちの何枚かを、
このギャラリーで掲示したいと思います。
この絵は色紙に水彩で書いています。
1959年と記載されています。だから50歳代のものです。
父の年代は無声映画時代に始まるチャップリンの時代
だったのですね。
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